*このエントリは「ポーカーゲーム(その二):一国二制度と民主香港」(前編)の続きです。*
三
香港の民主化論争は、1980年代に始まり、ずっと香港と北京を結ぶ神経を緊張させてきた。「普通選挙」を巡って、それが可能なの か、そしていかにそこに至るかが香港基本法の起草時に大きな論点になり、その後トウ小平の指示にしたがって「順序立ててゆっくりと」の原則を書き込まれたものの、もう後には引けなくなった今日、それが目の前にぶら下がる最大の難関となっている。
世界15カ国における民主化への変転を研究してきた、エール大学のジュアン・J・リンズ教授は1996年に刊行した名著「民主化転換と強固な問題」の中で、その論争の結末を「中華人民共和国が最終的 に民主化を完了する前においては、香港は民主政体とはなりえない。その民主運動の範囲やパワーがどれほど大きかろうも」と結論づけている。
昨 年10月に逝去したばかりのこの著名な社会学者は、香港が民主化の変転例における特殊なケースだと見ている。「民主化されていない国において、有効的な運営が可能な擬似民主政治体制が誕生するかどうか?」という問いに対して、彼は分析を通じ、「政治的に見ても、主権構造を見ても、不可能である」と断定している。
これこそまさに目下香港が陥っている問題の、大きな出発点なのだ。
香港において、現実政治下の民主は民主派が期待していたほど順調に生まれなかった。公民社会、言論の自由、法治の整備、行政の高効率、経済の豊かさ…さまざまな社会インフラが揃って、民主への変転は初 めて水が溝を流れていくようにうまくいく。だが残念ながらそれらは十分条件でしかなく、もっとも重要な必要条件とは、香港が自分でそれをどうやって取り仕切るか、それを決定するための能力を完備していること、である。
しかし、1984年の「中英共同声明」では、香港の立憲権を中華人民共和 国に与えた。つまりここにおける「自治」とは本質的なものではなく、「基本法」による枠付けによって、香港特別行政区の権力はすべからく「中央から与えられたもの」となった。1997年の主権返還以降行われてきた政治的な実践は、ほぼ「一国二制度」のボトムラインというものを香港人に知らしめた。香港中文 大学政治学部の馬嶽・教授はそれらを、「中央政府は、香港の一般社会と経済事務に関する政策決定に関してはほぼ干渉しないが、政治制度発展問題においてはためらうことなくその最終決定権を行使してきた」と総括する。特に民主化論争においては、中央政府はその主導権を手放したことはこれまでなかった。白書の公布もその一例である。
主権返還以降、民主派は香港の民主化改革を求める際に同じ論調を繰り返してきた。「もし、早いうちに民主制度を構 築しなければ、香港はどのような代価を支払うことになるだろう」というそれだ。香港中文大学社会学部の陳建民・副教授は2004年に香港紙『明報』で、「香港はもともと多元化した複雑な社会であり、活発な公民社会、批判力を持つメディア、そして議会内外の政党政治によって統治管理が日々複雑化してきた。 このような環境下においては[訳注:多角的な視野を持つ]民主を確立しなければ政治と政局の舵を取ることはできない。もし民主制度を確立しなければ、政治の停滞、つまり政治制度が社会の政治的要求に応えられなくなるだろう…そして民衆は犬か奴隷のように冷淡になったり、あるいは単純にポピュリズムに走るようになるかもしれないし、各者が民衆運動及びムードを自身の政治路線支援に利用すれば、社会はさらに不安定になるだろう」と書いた。10年が過ぎ、1年また1年、月またひと月と、人々の間から早く普通選挙を実現したいという声が上がり始めている。
香港基本法では、1997年から2007年の間に香港で代議制選挙によって行政長官と立法評議会議員の選出を行うと規定されており、同時に「最終的な普通選挙」を憲政目標にすると定めている。このため、2003年より香港の民主派は2007年の普通選挙実現に向けて働きかけを始めた。しかし、全国人民代表大会[訳注:中国の最高議決機関]は3回にわたって「基本法」に対して法解釈を行い、普通選挙を実現するスケジュールを2007年から2012年へと延期、さらに最終的にそれを2017年と決めた。香港の学者たちは理論世界においては想像していた「代価」とやらが、自分の生きる土地において逐一現実化されるのを前にしても、それをどうすることもできなかった。
一方、北京にとっても同じように「民主香港」は予想外の難題となっている。
それは決して「一国二制度」が最初に意図していたものではなかった。トウ小平が最初に持ちだした「一国二制度」構想においても、また先の白書が触れている、1983年に香港問題解決の ために中国政府がまとめた12条の基本方針においても、「一国二制度」の要諦はどれも経済制度に向けられ、香港の「資本主義制度と生活方法」を保証するためのものだったからだ。
馬嶽教授は、「一国二制度」の基本構想とは「主権統一という状況下において政治制度を整備することによって香港に特殊な地位をもたせ、主権返還後に引き続き資本主義型都市の役割によって国家の経済発展に貢献する」ものであり、それは実際には1949年に中国共産党が 政権を執った時に香港に対して採用した「長期を見据えて、十分に利用する」政策の延長だったと語る。そして、香港基本法における司法独立、社会の自由などに関する部分もまた、香港の資本主義がそのような附帯条件のもとで成長を続けるために設けられたものだった。言い換えれば、北京が求めていたのは、香港で「競走馬は走り続け、ダンスも続く」(経済的繁栄を享受する)ことであって、政治民主などではなかった。
また、中英協議から香港基本法起草までの香港において、確かに社会のメインストリームにおいては「民主」に視点を置いたコンセンサスはなかった。当時の香港では民意の大多数が民主を求めておらず、しかし主権返還も願っておらず、引き続きイギリスの植民地として、つまり「現状維持」、あるいは主権を中国に返還しても統治権をイギリスに留める、などの形を望んでいた。ほんの一部の知識エリートと進歩的な学生が「民主的返還」を主張し、さらにもっと一部の人が一般市民の投票による「運命の自決 権」を求めただけだった。
香港の民主化論争は、1980年代に始まり、ずっと香港と北京を結ぶ神経を緊張させてきた。「普通選挙」を巡って、それが可能なの か、そしていかにそこに至るかが香港基本法の起草時に大きな論点になり、その後トウ小平の指示にしたがって「順序立ててゆっくりと」の原則を書き込まれたものの、もう後には引けなくなった今日、それが目の前にぶら下がる最大の難関となっている。
世界15カ国における民主化への変転を研究してきた、エール大学のジュアン・J・リンズ教授は1996年に刊行した名著「民主化転換と強固な問題」の中で、その論争の結末を「中華人民共和国が最終的 に民主化を完了する前においては、香港は民主政体とはなりえない。その民主運動の範囲やパワーがどれほど大きかろうも」と結論づけている。
昨 年10月に逝去したばかりのこの著名な社会学者は、香港が民主化の変転例における特殊なケースだと見ている。「民主化されていない国において、有効的な運営が可能な擬似民主政治体制が誕生するかどうか?」という問いに対して、彼は分析を通じ、「政治的に見ても、主権構造を見ても、不可能である」と断定している。
これこそまさに目下香港が陥っている問題の、大きな出発点なのだ。
香港において、現実政治下の民主は民主派が期待していたほど順調に生まれなかった。公民社会、言論の自由、法治の整備、行政の高効率、経済の豊かさ…さまざまな社会インフラが揃って、民主への変転は初 めて水が溝を流れていくようにうまくいく。だが残念ながらそれらは十分条件でしかなく、もっとも重要な必要条件とは、香港が自分でそれをどうやって取り仕切るか、それを決定するための能力を完備していること、である。
しかし、1984年の「中英共同声明」では、香港の立憲権を中華人民共和 国に与えた。つまりここにおける「自治」とは本質的なものではなく、「基本法」による枠付けによって、香港特別行政区の権力はすべからく「中央から与えられたもの」となった。1997年の主権返還以降行われてきた政治的な実践は、ほぼ「一国二制度」のボトムラインというものを香港人に知らしめた。香港中文 大学政治学部の馬嶽・教授はそれらを、「中央政府は、香港の一般社会と経済事務に関する政策決定に関してはほぼ干渉しないが、政治制度発展問題においてはためらうことなくその最終決定権を行使してきた」と総括する。特に民主化論争においては、中央政府はその主導権を手放したことはこれまでなかった。白書の公布もその一例である。
主権返還以降、民主派は香港の民主化改革を求める際に同じ論調を繰り返してきた。「もし、早いうちに民主制度を構 築しなければ、香港はどのような代価を支払うことになるだろう」というそれだ。香港中文大学社会学部の陳建民・副教授は2004年に香港紙『明報』で、「香港はもともと多元化した複雑な社会であり、活発な公民社会、批判力を持つメディア、そして議会内外の政党政治によって統治管理が日々複雑化してきた。 このような環境下においては[訳注:多角的な視野を持つ]民主を確立しなければ政治と政局の舵を取ることはできない。もし民主制度を確立しなければ、政治の停滞、つまり政治制度が社会の政治的要求に応えられなくなるだろう…そして民衆は犬か奴隷のように冷淡になったり、あるいは単純にポピュリズムに走るようになるかもしれないし、各者が民衆運動及びムードを自身の政治路線支援に利用すれば、社会はさらに不安定になるだろう」と書いた。10年が過ぎ、1年また1年、月またひと月と、人々の間から早く普通選挙を実現したいという声が上がり始めている。
香港基本法では、1997年から2007年の間に香港で代議制選挙によって行政長官と立法評議会議員の選出を行うと規定されており、同時に「最終的な普通選挙」を憲政目標にすると定めている。このため、2003年より香港の民主派は2007年の普通選挙実現に向けて働きかけを始めた。しかし、全国人民代表大会[訳注:中国の最高議決機関]は3回にわたって「基本法」に対して法解釈を行い、普通選挙を実現するスケジュールを2007年から2012年へと延期、さらに最終的にそれを2017年と決めた。香港の学者たちは理論世界においては想像していた「代価」とやらが、自分の生きる土地において逐一現実化されるのを前にしても、それをどうすることもできなかった。
一方、北京にとっても同じように「民主香港」は予想外の難題となっている。
それは決して「一国二制度」が最初に意図していたものではなかった。トウ小平が最初に持ちだした「一国二制度」構想においても、また先の白書が触れている、1983年に香港問題解決の ために中国政府がまとめた12条の基本方針においても、「一国二制度」の要諦はどれも経済制度に向けられ、香港の「資本主義制度と生活方法」を保証するためのものだったからだ。
馬嶽教授は、「一国二制度」の基本構想とは「主権統一という状況下において政治制度を整備することによって香港に特殊な地位をもたせ、主権返還後に引き続き資本主義型都市の役割によって国家の経済発展に貢献する」ものであり、それは実際には1949年に中国共産党が 政権を執った時に香港に対して採用した「長期を見据えて、十分に利用する」政策の延長だったと語る。そして、香港基本法における司法独立、社会の自由などに関する部分もまた、香港の資本主義がそのような附帯条件のもとで成長を続けるために設けられたものだった。言い換えれば、北京が求めていたのは、香港で「競走馬は走り続け、ダンスも続く」(経済的繁栄を享受する)ことであって、政治民主などではなかった。
また、中英協議から香港基本法起草までの香港において、確かに社会のメインストリームにおいては「民主」に視点を置いたコンセンサスはなかった。当時の香港では民意の大多数が民主を求めておらず、しかし主権返還も願っておらず、引き続きイギリスの植民地として、つまり「現状維持」、あるいは主権を中国に返還しても統治権をイギリスに留める、などの形を望んでいた。ほんの一部の知識エリートと進歩的な学生が「民主的返還」を主張し、さらにもっと一部の人が一般市民の投票による「運命の自決 権」を求めただけだった。
......もっとごろごろ