2014年10月06日

張潔平「ポーカーゲーム(その一):一国二制度と民主香港」(後編)



三 

香港の民主化論争は、1980年代に始まり、ずっと香港と北京を結ぶ神経を緊張させてきた。「普通選挙」を巡って、それが可能なの か、そしていかにそこに至るかが香港基本法の起草時に大きな論点になり、その後トウ小平の指示にしたがって「順序立ててゆっくりと」の原則を書き込まれたものの、もう後には引けなくなった今日、それが目の前にぶら下がる最大の難関となっている。

世界15カ国における民主化への変転を研究してきた、エール大学のジュアン・J・リンズ教授は1996年に刊行した名著「民主化転換と強固な問題」の中で、その論争の結末を「中華人民共和国が最終的 に民主化を完了する前においては、香港は民主政体とはなりえない。その民主運動の範囲やパワーがどれほど大きかろうも」と結論づけている。

昨 年10月に逝去したばかりのこの著名な社会学者は、香港が民主化の変転例における特殊なケースだと見ている。「民主化されていない国において、有効的な運営が可能な擬似民主政治体制が誕生するかどうか?」という問いに対して、彼は分析を通じ、「政治的に見ても、主権構造を見ても、不可能である」と断定している。

これこそまさに目下香港が陥っている問題の、大きな出発点なのだ。

香港において、現実政治下の民主は民主派が期待していたほど順調に生まれなかった。公民社会、言論の自由、法治の整備、行政の高効率、経済の豊かさ…さまざまな社会インフラが揃って、民主への変転は初 めて水が溝を流れていくようにうまくいく。だが残念ながらそれらは十分条件でしかなく、もっとも重要な必要条件とは、香港が自分でそれをどうやって取り仕切るか、それを決定するための能力を完備していること、である。

しかし、1984年の「中英共同声明」では、香港の立憲権を中華人民共和 国に与えた。つまりここにおける「自治」とは本質的なものではなく、「基本法」による枠付けによって、香港特別行政区の権力はすべからく「中央から与えられたもの」となった。1997年の主権返還以降行われてきた政治的な実践は、ほぼ「一国二制度」のボトムラインというものを香港人に知らしめた。香港中文 大学政治学部の馬嶽・教授はそれらを、「中央政府は、香港の一般社会と経済事務に関する政策決定に関してはほぼ干渉しないが、政治制度発展問題においてはためらうことなくその最終決定権を行使してきた」と総括する。特に民主化論争においては、中央政府はその主導権を手放したことはこれまでなかった。白書の公布もその一例である。

主権返還以降、民主派は香港の民主化改革を求める際に同じ論調を繰り返してきた。「もし、早いうちに民主制度を構 築しなければ、香港はどのような代価を支払うことになるだろう」というそれだ。香港中文大学社会学部の陳建民・副教授は2004年に香港紙『明報』で、「香港はもともと多元化した複雑な社会であり、活発な公民社会、批判力を持つメディア、そして議会内外の政党政治によって統治管理が日々複雑化してきた。 このような環境下においては[訳注:多角的な視野を持つ]民主を確立しなければ政治と政局の舵を取ることはできない。もし民主制度を確立しなければ、政治の停滞、つまり政治制度が社会の政治的要求に応えられなくなるだろう…そして民衆は犬か奴隷のように冷淡になったり、あるいは単純にポピュリズムに走るようになるかもしれないし、各者が民衆運動及びムードを自身の政治路線支援に利用すれば、社会はさらに不安定になるだろう」と書いた。10年が過ぎ、1年また1年、月またひと月と、人々の間から早く普通選挙を実現したいという声が上がり始めている。

香港基本法では、1997年から2007年の間に香港で代議制選挙によって行政長官と立法評議会議員の選出を行うと規定されており、同時に「最終的な普通選挙」を憲政目標にすると定めている。このため、2003年より香港の民主派は2007年の普通選挙実現に向けて働きかけを始めた。しかし、全国人民代表大会[訳注:中国の最高議決機関]は3回にわたって「基本法」に対して法解釈を行い、普通選挙を実現するスケジュールを2007年から2012年へと延期、さらに最終的にそれを2017年と決めた。香港の学者たちは理論世界においては想像していた「代価」とやらが、自分の生きる土地において逐一現実化されるのを前にしても、それをどうすることもできなかった。

一方、北京にとっても同じように「民主香港」は予想外の難題となっている。

それは決して「一国二制度」が最初に意図していたものではなかった。トウ小平が最初に持ちだした「一国二制度」構想においても、また先の白書が触れている、1983年に香港問題解決の ために中国政府がまとめた12条の基本方針においても、「一国二制度」の要諦はどれも経済制度に向けられ、香港の「資本主義制度と生活方法」を保証するためのものだったからだ。

馬嶽教授は、「一国二制度」の基本構想とは「主権統一という状況下において政治制度を整備することによって香港に特殊な地位をもたせ、主権返還後に引き続き資本主義型都市の役割によって国家の経済発展に貢献する」ものであり、それは実際には1949年に中国共産党が 政権を執った時に香港に対して採用した「長期を見据えて、十分に利用する」政策の延長だったと語る。そして、香港基本法における司法独立、社会の自由などに関する部分もまた、香港の資本主義がそのような附帯条件のもとで成長を続けるために設けられたものだった。言い換えれば、北京が求めていたのは、香港で「競走馬は走り続け、ダンスも続く」(経済的繁栄を享受する)ことであって、政治民主などではなかった。

また、中英協議から香港基本法起草までの香港において、確かに社会のメインストリームにおいては「民主」に視点を置いたコンセンサスはなかった。当時の香港では民意の大多数が民主を求めておらず、しかし主権返還も願っておらず、引き続きイギリスの植民地として、つまり「現状維持」、あるいは主権を中国に返還しても統治権をイギリスに留める、などの形を望んでいた。ほんの一部の知識エリートと進歩的な学生が「民主的返還」を主張し、さらにもっと一部の人が一般市民の投票による「運命の自決 権」を求めただけだった。



......もっとごろごろ
posted by wanzee at 18:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 香港のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

張潔平「ポーカーゲーム(その一):一国二制度と民主香港」(前編)





30年前、香港の漫画家、尊子はこんな漫画を書いた。きれいに着飾った新婦が頭巾をかぶり、両親に向かって頭を下げている結婚式の様子だ。父親の姿はトウ小平、母親はサッチャー夫人で、彼女のそばにいる新郎はただの巻紙で、そこには「中英共同宣言」と書かれている…

courtesy of Zun Zi.jpg














それは新婦の意思を無視して行われる「盲婚唖嫁」だった。

中国ではよく知られている「子供が産みの母の胸へ戻った」、そして西洋でよく言われる「東洋の真珠が共産党政権の手に落ちた」などという言葉とは違い、それが香港人が眺めた「主権返還」のストーリーであり、そこには少なからずの香港人がこの、自分の運命の書き換えの際に感じた、「驚きと怖れ、呆然、そしてじくじくとした屈辱感」がきちんと描かれている。

あの1982年から1984年にまたがる中英協議のとき、将来の問題が「ダモクレスの剣」のように一人ひとりの頭上にぶら下がったまま、530万人の香港人は家の中に座ってその判決を待った。彼らには何も言う資格もなかった。ある香港の代表が北京に向かい、トウ小平に向かって香港人の思いを伝えようとした。1984年6月、トウ小平が彼らに向けて放った「中英協議は3本足の椅子ではない」という言葉が響き渡った。

「3本足の椅子」は一時期、香港で流行語になった。人々は繰り返しその意味を反芻した──「香港は 自分の立場をわきまえろ。返還するかどうか、いかに返還するのかは中国とイギリスの間の、二つの国の主権についての協議であり、香港の民意とはなんの関係もなく、香港人は根っから協議のテーブルにつく資格はないのだ」と。

中国側にとっては、それは外交において大きな知恵を求められる決断の場だった。だが、まだきちんと「植民地解放」の過程入りしていなかった香港に、目に見えない傷口を残した。「この傷口は今でも癒えずに残ったままだ。というか、人々の間で今になってやっとそれが意識された始めた」と、香港嶺南大学文化研究学部の羅永生・副教授は語る。

30年後の今、香港中文大学社会学部の陳健民・副教授が当時のことをもうひとつ、やはり尊子の漫画によく似た形で語る。それは──

「18歳になるまでは恋愛をしてはいけない」と両親は娘に言い続けた。18歳の誕生日に両親はまた、「まだ早すぎる。5年後に自由な恋愛を認めてやってもよい」と言い、娘は黙ってそれを受け入れた。23歳の誕生日の前夜、両親はこう言った。「『ゆっくりとした手順』と『実際の状況』を考慮した上で、28歳になったら自由恋愛をしてよいと決めた」…なのに、彼女がもうすぐ28歳の誕生日を迎えるという頃になり、両親が突然「自由恋愛」の定義を、「恋愛相手は我々がまず選ぶ。彼らは我々に抵抗しない人間であることが条件だ」と言い始めた。これまでじっとそれを聞いてきた娘はたずねた。「自由恋愛というのは、個人の 意思で選ぶことではないの?」

これが、1997年の香港返還以来、「香港基本法」の中で認められた、民主を求める道を歩み続けてきた香港人に対する陳副教授の比喩である。「娘」は香港、「両親」は北京、「自由恋愛」とは民主的普通選挙のことだ。2003年以降、「娘」と「両親」の間における、「自由恋愛」を巡るいさかいは年を追うごとに激しく強烈になっており、今まさにその「28歳の誕生日がそこまで」近づいているところなのだ。

2007年12月の全国人民代表大会では、香港は2017年に普通選挙を行って行政長官を選出することができると決定した。ならば、どうやって選ぶのか? 誰がその指揮を取るのか? そんな激烈な論争が公の場で昨年から始まり、香港中を席捲するようになった。

民 主派関係者と彼らの支持者(歴年の立法評議会直接選挙で選出された議員の得票数から見て、有権者の約6割を占める)は、香港が求めているのは「国際基準に見合った」「本当の普通選挙」なのだと主張する。一方、北京の中国政府において香港マカオ事務を担当する政府官僚たちははっきりと、トウ小平がいち早く中 英協議の場において口にした「候補者は必ず愛国愛(香)港であること」、「香港基本法」を順守することが普通選挙を論ずる基礎であるという態度を採る。「香港基本法」は国際基準と矛盾するものではない。だが、「愛国愛港」という政治的表現が行われたことに、それが候補者ふるい落としの足かせとされ、北京 当局(訳注・中国の中央政府)が歓迎しない人物は行政長官選挙に立候補できなくされるのではないかという強烈な不安を民主派にもたらした。彼らは、十数年の間、実現を目指してきた「普通選挙」が「ニセ普通選挙」になってしまうのでは、と心配している。

30年を経て香港は再び、政治的運命のカギとなる時期を迎えた。今回は多くの香港人が協議のテーブルから外されたままではいけないと考えるようになった。

そ うして、主権返還以来の香港で最大規模の急進的社会キャンペーン、「占領中環」(「オキュパイ・セントラル」、あるいは「セントラルを占領せよ」)が今じ わじわと注目を集めている。このキャンペーンはとても直接的な手法を採っている──もし「本当の普通選挙」が行われなければ、「公民は抵抗」する、つまり 違法な(そして行動後は法に服するという)犠牲的手段で「(香港の政治・経済の中心地区である)セントラルを占領」し、政治、経済の中心を麻痺させる、というのだ。その爆発的な力を持つ、隠しカードを持って協議のテーブルに無理やり座って中央政府に妥協を迫り、「本当の普通選挙」を実現しようという考え方である。

だが、相手側の、香港・マカオ事務担当官僚を通じて自身の意向を「リーク」し続けてきた北京当局は、それに対して直接切り札を叩きつけた。6月10日、国務院[訳注:中国政府の内閣]は香港問題についての初めての白書を発表し、中央政府が考える「一国二制度、港人治港」の含意とその境界線について、その立場をはっきりと宣言した。

それはまるで30年前の主権協議における「3本足の椅子」のように、2014年の白書は民主的統治権を求めた香港人の眼前に、「身分をわきまえろ」という文字を一字一句そのまま彷彿させた。


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posted by wanzee at 00:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 香港のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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